テスト勉強 冷戦

冷戦

1947年から1989年の米ソ超大国同士の対立、対抗。米ソの対立が軍拡競争、イデオロギー対立、諸地域に置ける政変、内乱、ゲリラ活動などの体制選択争点と結びつきながら進行していった。二国間の軍事的に争ったことはなく、歴史的、地理的な対立点はない。
しかし、東ヨーロッッパ、東アジアを舞台に対立した。両大国がともに膨大な軍事力を持ち、各地で武力紛争を繰り返した。
また、資本主義、民主主義、自由主義アメリカと計画経済、社会主義集団主義ソ連それぞれが「モデル国家」と考え対立した。互いに、相手国を敵とみなし、対婦負的には抑圧的で対外的には攻撃的だとするイメージを抱いていた。

封じ込め政策

相手方の政治経済体制に対して否定的な場合、そのような政治経済体制の国際拡大を防ぎ、その影響拡大を阻止すること。ジョージ・ケナンがX論文で提唱した。前方展開、経済曲の促進、敵陣営の分裂をはかるなどの手段を用いる。

デタント

冷戦の緊張状況から平和的な共存が出来ないかという意識が生まれてくる。その緊張緩和のコンセプトがデタントである。お互いが若いし、共通基盤が広がっていくというものではなく、違うものがあり、対立しながら、双方の共存のために短期的調整を積み重ねていくもの。

米ソの地域紛争

1980年代、米ソ間の対立とは独自の対立が世界各地で発生し、それに米ソがそれぞれ介入する。代理戦争という形になるものの、必ずしも米ソのイデオロギー対立などが関わってない場合もあり、「犬が尾を振るのではなく、尾が犬を振る」ような状況になっていた。核兵器に置ける対立ではソ連アメリカに遅れをとっていたために、地域紛争によってソ連が対抗しようした。

ポスト冷戦

1985年にゴルバチョフが書記長に就任し、ソ連外交政策を転換させる。89年末にはマルタ会談により冷戦終結が宣言された。
しかし、冷戦終結により平和秩序が構築された訳でなく、南北の格差が拡大した。南の社会に置いて宗教的原理主義による反発と人権意識の対等を招き、あらたに混乱を生じてしまし、秩序形成は不明確なままである。

核抑止論

攻撃を受けた際には核兵器による報復により堪え難い損害を及ぼす石と能力があることをあらかじめ潜在的攻撃者に了解させることによって未然に攻撃を抑止するという考え方。核兵器を使用することなく相手の攻撃を防ごうとするものである。冷戦終結後は核抑止論による防衛が困難になっている。潜在的な攻撃者が不明確で、抑止の意思、能力が伝達できない、抑止の意思表示が威嚇となり攻撃を誘発させてしまう、偶発核戦争の危険性が上昇するなどの要因がある。

相互確証破壊

いずれかの国が先制攻撃を行ったとしても、その場合には壊滅的な破壊が可能な報復行為を実施することを相互に信じさせる。米ソともに相手方の先制核攻撃を受けた場合にも報復用の核兵器が残存し、かつその核兵器が報復側に耐えきれないような損害を与えられることが相互に認められるのが条件になる。